じゅぴたの備忘録

自然、宇宙、BUMPが好き。

「多層世界とリアリティのよりどころ」感想

久々に外出したので、ずっと気になっていた展示会に立ち寄ってみた。

 

NTTインターコミュニケーションセンターの展示会「多層世界とリアリティのよりどころ」。

 

「科学×芸術」がコンセプトの展示会が好きで、最近行ったのは日立が主催していた「Quantum Art Festival」。今回の展示会は題から「深層学習×芸術」みたいなイメージを勝手に持って赴いたのだけど、実際はVRの展示会だった。

 

自分は情報系とはいえ、VRとかコンピュータビジョンとは遠い。実際に展示を見てみて、自分は興味の対象がこういう工学的な分野ではなく、理学寄りなんだろうなと思った。館内も常に何か音がしていて、インタラクティブな感じ。

 

イメージとしてはゲームの世界。特に佐藤暸太郎さんの作品《Interchange》が刺激的だった。「アセット」っていうインターネットで公開されている素材データ(群衆シーンやエキストラとして用いられる)を使って大量にキャラクターを発生させる。アメリカ由来のキャラとか、どう森のキャラとか、同時に画面上に生成されていてカオス。少しホラー。小さい頃、映画トイストーリーを見て感じた恐怖感に近い。子供に見せていた親がいたけど、子供からしたらトラウマになり得る映像だと思ったw 

 

ゲームから着想を得た作品としては他に、たかはし遼平さんの《In game  botanical》トータル・リフューザルさんの《How to Disappear》があった。《In game  botanical》はゲーム内でフィールドワークして、植物図鑑を作るといったコンセプト。これは楽しそう。調査した結果植物の種類は100種類ほどあるらしく、意外と多い。《How to Disappear》はゲーム内の戦争では脱走することができないなど、現実世界の戦争との対比をテーマにしていた。ゲーム内では敵と味方がはっきりしていて、二極化(単純化)されている。しかし実際の世界では、敵か味方かでは片付かないもっと複雑な国家関係がある。ゲーム内では秩序(アルゴリズム)が全てを支配する一方、現実は無秩序で曖昧ことがたくさんある。

 

現実世界と仮想世界の違いを考える。

 

この日、ひさびさに青空の下を歩いた。

太陽のあたたかさ、肌に当たる風に、なぜか泣きそうになった。

人間は自然から生まれ、自然に帰る。

どんなに科学が進歩しても、本能的に人間は自然を求めるんじゃないだろうか…

 

現実世界にいる自分は、そんなことを思った。

この空間、カッコ良い。

www.ntticc.or.jp

「千と千尋の神隠し」考察

中間テストのために久々に大学行って、帰りに友達と映画見に行って、放課後の楽しさを何ヶ月かぶりに味わった。

 

千と千尋の神隠しは色々と解釈があるけれど、今日は新しい視点で物語を見ることができたので、それを書き留めておこうと思う。ジブリは中高生の頃からの視点と大学生になってからの視点でもかなり変わってきたりするので、味わい深い。

 

私がこの作品から新しく受け取ったメッセージは「自分のために、人間らしく、自分の人生を生きなさい」というもの。普通の人はこの作品をどう解釈しているのかわからない。そんなの観れば自明だ、もしくはそんな深読みする必要ない、そんなの違うという人もいると思う。以下はなぜ私が映画からそんなメッセージを受け取ったかの根拠を述べる。

 

まず親が豚になってしまうシーン。ここで注目したいは、この親豚たちが誰かにムチで叩かれている場面。これは現代の社会人にも投影できる。相手が与える餌(お金)を待ち、ムチで叩かれる(働かされる)人々。社畜が会社に飼い慣らされている様子と捉えると分かりやすい。この異世界ではこの”豚”と”カオナシ”そして”湯屋で働く人々”が一般的な現代人に投影されているのでは?という見方をした。

 

この世界での”神様”はいわゆる現実世界の”上流階級”の人々、”地位の高い人”という見方ができると思っている。そして”湯婆婆”も然り。

初めにハクと千尋が橋をわたるシーンでは、人間臭さを出してはいけない(息をしてはいけない)という描写が「人間らしく生きていては生きていけない」「ただただ地位の高い人のもとで息を殺して、機械のようにしたがって働かなくてはいけないのだ」という社会構造を暗示しているようにも感じる。そしてハクが千尋に『「働く」と言わなければ湯婆婆はこの世界で我々を生かさせてはくれない』(曖昧)と言ったようなシーンも現代社会を案じてるように見える。

 

そして湯婆婆と契約した時名前を変えられるシーン。働く決断をした時、人は自分が誰なのかを働くうちに見失っていく。会社のため、組織のための道具になり変わり、自分としての生き方が出来なくなっていく。名前にまつわるシーンはこの後もたくさん出てくる。ハクもこの世界にいる中で自分の名前を忘れてしまっている。ハクと千尋が一緒にいる時お互いの名前を思い出すようなシーンが出てくるのは、昔千尋がその川に落とされたという経緯も関係しているが、お互いの前では自分が誰であるか再認識できる、社会がどうであるということから外れて、ありのままでいられる存在だから、ということも関係しているのではと思う。

 

湯婆婆が利潤をあげて湯屋の人々を働かせている一方、銭婆はのんびり自分のペースで、自分を大事に生きている。湯婆婆は「利を追求する人物」だが、銭婆はその真逆をいくような人生観を持っている。そしてこの銭婆との時間で育んだ人生観が、最後の親を豚の中から探すシーンにも生かされているように思う。その豚の中に親はいないという千尋。それはもう「人は豚のように誰かに飼い慣らされて生きるようなものではない、誰かのために人生を生きるのではなく、自分のために生きる」という価値観を持つようになったからではないか。

 

ハクに関しては友達に千尋の兄説を聞いて面白かったので書いておきたいとこだけど、長くなるのでこのくらいで終わりにしておく。